バトンタッチを考える

オリンピックの感動、その思いを伝えること。

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1964年10月10日、東京オリンピック開会 

 1964年10月10日、東京オリンピックの開会式が行われました。アジアでは初めてのオリンピックの開催でした。 

 私は中学1年生でした。その当時、土曜日は学校の授業が午前中だけありました。午後からの開会式に間に合うよう、走って家に帰ったのを覚えています。

 前日の大雨が嘘のように晴れ渡っていました。

 国立競技場。

 聖火リレーの最終ランナー、坂井義則さんが聖火台に点火し、日本選手団の主将、体操の小野喬さんの選手宣誓が終わり、白い無数の鳩が一斉に青空に飛び立ちました。 

 そのとき、上空に5機のジェット機が飛んできました。航空自衛隊の「ブルーインパルス」F―86F戦闘機でした。ブルーインパルスチームは上空で旋回し、真っ青な五輪の輪を描き出しました。 

 このことをいまでもはっきりと覚えています。 

 パイロットたちは1年半に渡り、訓練を重ねたそうです。なかなか成功しなかったそうですが、緻密な計画と練習のお陰で見事に開花しました。 

 私は、すっかりオリンピックに夢中になりました。 

 当時、私は東京都渋谷区笹塚に住んでいました。マラソンコースになった甲州街道の近くでしたから、エチオピアのアベベ・ビキラ選手の走りを間近に見ました。駒沢公園ではホッケーの試合を見ました。あとはテレビの前に張り付いていました。 

 1964年の東京オリンピックは、戦争で焼け野原になった日本が、経済復興を遂げた象徴だったと後から知りました。 

 自国開催のオリンピックは、他国で行われるオリンピックとは臨場感がまるで違います。 

2013年9月8日、2度目のオリンピックが決定 

建設中の聖火台

 2013年9月8日、「東京2020オリンピック」の開催が決まった日、私は朝4時に起きて、テレビを見ていました。 

 投票はブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われていました。東京のほか、マドリード(スペイン)、イスタンブール(トルコ)が立候補しており、1回目の投票で東京は1位通過し、イスタンブールとの決選投票になっていました。 

 午前5時20分、IOCのジャック・ロゲ会長が「TOKYO」と発表した瞬間、思わずガッツポーズをしていました。 

 1964年以来56年ぶりで、同じ都市での2回開催はアジアで初めてとなります。都内のイベント会場では東京の最終プレゼンテーションから開催都市発表までの模様を中継する「パブリックビューイング」が行われ、開催決定を喜ぶ声に包まれました。 

  私は、「これで1億2500万人がオリンピックを体験できる」「その思い出は強く残るだろう」と思いました。 

 また、2020年に向かって、若い世代が目標をもって進んでいくことができる、目標があると日本は大きく変わることができると願いました。 

 競技者として参加する人はもちろんですが、大会を企画運営するスタッフとして携わる人、ボランティアとしてお手伝いする人、競技を観戦する人、少しでもオリンピックに関わると、思いは強く残ります。 

 2020年に予定されていた大会は、新型コロナという思いも寄らない感染症のために、1年延期になりました。 

 ですが、2021年に東京でオリンピックが開催され、そのとき「自分もそこにいた」というリアルな体験は何事にも変えがたいものです。 

 私が子どものときに感じた躍動感、高揚感を今また多くの人が体験し、そして、それを30年後、50年後に語り継ぐことができることを願っています。

 私は「東京2020オリンピック競技大会」の聖火ランナーに応募し、幸運なことに選ばれました。その時の応募動画が以下です。