一身にして二生を経る〜伊能忠敬にならう〜。
伊能忠敬旧宅を訪ねる
バトンリレー後の人生を考えたとき、参考になるのが、伊能忠敬です。
千葉県佐原市の小野川沿いに建つ「伊能忠敬旧宅」を訪ねたことがあります。
伊能家は、米の売買や酒造りを営んでいた地元の名家でした。
旧宅では店舗や母屋、土蔵がほぼ江戸時代のまま残っています。対岸には、国宝に指定されている忠敬の関係資料2345点を収蔵する「伊能忠敬記念館」があります。50歳から、測量という第二の人生にまい進した忠敬をしたう人が年間8万人ほど訪れます。
2021年は、伊能忠敬の全国測量による「大日本沿海輿地全図」が幕府に上程されてから200年を迎える年です。
1800年から16年まで足かけ17年、10次にわたり忠敬は全国を測量しました。
でも、これは隠居後の仕事なのです。
人生100年時代の範となる人
忠敬は、若い頃から商才を発揮しました。忠敬が29歳の時(1774年)に349両(1両=約15万円)だった伊能家の年間収入は、49歳の時(1794年)には1262両と約3・6倍になっています。
隠居後、江戸に出て19歳年下の高橋至時(よしとき)の弟子となり、天文学や測量学を学びました。なぜ天文学を学ぼうとしたのかは分かっていないのですが、研究者によると、伊能家の一門には、国学の大家や村の史料をまとめた先輩たちがいて、忠敬も、商売とは何か別の業績を残そうとしたのではないか、その際、もともと理系が得意だったから天文学を志したのだろうと言われています
そして、55歳から17年の歳月をかけ日本中で測量の旅を続けたのです。
「一身にして二生を経(ふ)る」。
これは福沢諭吉の「文明論之概略」に記された一節で、明治維新の前に学んだ漢学との比較対象により、西洋文明を論じることができる意義を指摘したものです。
ですが、言葉の解釈を「第二の人生」に広げるなら、光彩を放つ人物がまさに忠敬ということになるでしょう。
興味をもったことを続ける
忠敬の生き方に共鳴した井上ひさしさんは「四千万歩の男」を著しています。愚直な意志により第二の人生を歩くことで全うする姿を、密着細密描写するよう心掛けたといいます。井上ひさしさんは講演で、忠敬についてこんなことをおっしゃっていました。
「忠敬は当初、日本国中の海岸線を全部歩くなんてまったく思っていませんでした。時代背景に恵まれた『時代の子』で、いろんな人に助けられたのです。
当時、求められていた数字に「緯度1度の距離」がありました。地球が丸いと分かっていたので、緯度1度の距離が分かれば地球の円周も分かります。
一方でロシアという大国がシベリアを開発し、蝦夷地への進出が懸念されていました。幕府は蝦夷地の地形を知る必要が生じ、師匠の至時はこれをチャンスとみて、忠敬を北へ歩かせ、緯度1度を実測することを思い付きました。
緯度1度の距離が分かると、忠敬は歴史に名前が残ります。幕府にとっては、測量費用の大半を忠敬が負担するから、金を掛けずに地図ができます。
日本の海岸線を全部測ることを最初から目標にしたら、すぐにやめてしまったでしょう。忠敬は自分が測った結果をそのたびに地図として表現したのです。17年間、自分が一番興味を持ったことを根気よく続けているうちに、とんでもない仕事をしてしまったというのが実のところでしょう。このことを考えると勇気が出ます。一生の仕事とはどうなすべきか、というモデルを後世に残してくれました。」(2004年7月6日、仙台文学館での講演より)
私は、井上ひさしさんの言葉、「難しいことをやさしく。やさしいことを深く。深いことをおもしろく」が大好きです。井上さんは忠敬についても、専門的に掘り下げ、深いことをおもしろく伝えてくれています。
井上さんの言葉のなかの「自分が一番興味を持ったことを根気よく続けているうちに、とんでもない仕事をしてしまった」という部分はとても共感できます。
私は「1つのことを続けられるモチベーションがある人をプロと呼ぶ」と考えています。「続けられる」「続ける」ということは大変すばらしいことです。たくさんの経験をするということは、それだけ知っている、事例が豊富である、人を助けることができるということを意味します。
忠敬は、隠居後の人生で、興味をもったことを続けました。人生100年時代の範となる人だと思います。
私もバトンリレー後の人生を充実したものにしたいと考えています。